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ある殺意

ヒロは小学校 3 年で、目の病で入院していた。ミナコは、ベッドに横たわる彼女の横に、座っていた。ミナコは、ヒロの母親ではない。ミナコの交際するナオキの連れ子がヒロである。ナオキは、36 歳で妻と死別したばかりだった。ナオキも若い頃は、複数の女を泣かせたが今回の死別で、ミナコと落ち着くことにした。しかし、ヒロはまだ、ミナコを見たことがなかった。ミナコがこうしてそばにいるのも、彼女の目が見えないからかもしれない。病院の室内は、恐ろしいほど静かでヒロの寝息だけがミナコの耳に届いた。それは、遠い幼いころ聞いた妹の寝息に似ていた。ミナコに子はなかったが、眠るヒロの手に優しく握っていた。

彼女は、ナオキのことを考えた。ナオキに出会った時、ナオキは妻子がいるのを隠すこともしなかったし、不器用ながらも目の見えないヒロを育てていた。そんな実直なナオキにミナコは惚れてしまったのだ。しかし、どう考えてもヒロの目の病気は治る見込みがなかったし、彼もそのことに関して疲れていた。

ヒロがいなければ・・・。

ナオキは、私だけを見てくれる。子供のことを第一に考えないで、二人でゆっくり人生を送ることができる。

ミナコは、気がついたらヒロの首に手をかけていた。彼女は、ヒロの首を締めながら、もうどうなってもいい、こうあるべきなんだ、彼女は死んだ方が幸せなんだ、と自分に言い訳をしていた。何故か夢の中のできごとのように。彼女の細い首は、ミナコの手で簡単に締めることができた。

「おかあさん・・・?」

ヒロは、暗闇の中で首を締める女の手に問いかけた。

ミナコは、彼女の声を聞いて恐ろしいほど汗をかいている自分に気がついた。そして、ゆっくりと彼女の首から手を離した。ヒロは、目の見えない自分を苦しめる手を母親だと思った。夢の中で。

ナオキが、病室に入ってきたのは 5 分もしないうちだった。

「どうした ? ひどい顔をしてるぞ」

ナオキは、ミナコの肩に手を置き心配そうに覗き込んだ。

ミナコは、黙って立ち上がり病室を出た。病院の中は、相変わらず静かで、ふと誰もいないのではないかと考えた。階段をゆっくり上ると屋上に出た。初秋の空は、青く澄み渡り、雲が刷毛で擦ったように浮かんでいた。冷たい風が、ミナコのほほにあたる。彼女は、ドアを出ると階段に腰を下ろした。手のひらに温かいものがこぼれ落ちる。ミナコは、自分が泣いているのに気がつかなかった。そして、泣いている自分に気がついた途端、とめどなく涙が溢れた。

私は、彼女を殺そうとした。彼女は、健気にも私を(勘違いにせよ)「おかあさん」と呼んだ。私は、彼女の母親ではない。彼女には、母親がいない。でも、こんな私にでも母親になることができたら。

ふいにドアが静かに開き、ナオキがミナコの横に座る。そして、彼女を無言で抱きしめた。この人の子供。この人の子供ならきっと愛することができる。彼女は、ナオキの胸の中でそう感じた。

遠くで飛行機が飛び立つのが見える。そして、夕暮れと青空の境にいつまでも消えない白く細い雲を残した。

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