Web Café Weblog - Archive
bakery 12
Last Modified : Sat, January 06 22:02:36 2018
2002-08-05 / bakery 12
翌朝、僕が起きた時には彼女は朝食を作っていた。そして、自分が裸のまま眠っていたことに気がつく。お母さんの布団に何故裸で寝ているの? なんて、男の子が聞いている。
「お客さんだから、お布団で寝てもらったのよ。お母さんはソファーで寝たの」
いい答えだ。僕は、彼に気が付かれないように、布団の中でパンツを穿き、外に出てジーパンを穿いた。トーストの焼ける香りがする。僕の勤めているパン屋のパンだろう。よく、余ったパンを貰って帰ったりしたけれど、これはもうお世辞抜きで美味しいと思う。だから、あの店は、固定客がたくさんいる店だった。
「お兄さんも、こっちに来て。ご飯できたわよ」
「はい。ありがとうございます」
心の中では、「わかったよ、メイ」だったけど、彼の手前そうはいかない。ただでさえ、彼女のベッドに寝ていたのだ。彼の父親に知れることになったら、それこそどうなるかわからない。
彼女の簡単な料理とトーストは、美味かった。みんなで、小学校のプールについての話をしながら食べる。こうしていると本当に彼の父親であり、彼女の夫である錯覚を覚える。
…
当時、僕は新しく出たばかりの MD のポータブルプレイヤーを購入した。当時は発売されたばかりだったこともあり、相当値が張った。それでも、通学の時間や、持て余した時間のために、僕は購入したのだ。勿論、即金ではなく、10 回程度のローンで買ったはずだ。そして、僕は彼女に好きな曲を沢山入れて、渡した。不思議なことに何を入れたのか、今ではさっぱり覚えていないのだ。でも、ひとつだけ覚えているのが、マイクを挿して、彼女にメッセージを入れた。最後の曲のあとの、数十秒の間に。
「メイ。好きだよ」
そんなセリフを入れた気がする。今考えると、とても恥ずかしいけれど。そして、彼女からも、同じように、彼女の好きな曲が入った MD を貰った。Air-supply とか、Eagles とかが入っていたと思う。最後には、メッセージが入っていた。
「マサキ。大好きよ。貴方ともっと早く会っていたらよかった」
僕は、そのメッセージを聞くたびに、なんだか切ない気分になった。彼女は、多分本当にそう思っていたんだと思う。結婚した相手に、愛を感じなくなって、子供だけが彼女の支えだった。そして、僕と会っている間だけ情欲に溺れ、また、いつもの生活に戻る。
…
数年が過ぎて、学校を卒業して、大手家電量販店の配達の仕事についた。毎朝、伝票を確認して配達先を確認して、効率よく走って全て配り終える。そんな仕事だ。そして、売り場の女性スタッフと仲良くなり交際していた。学生の頃よりも、髭は濃くなり、心なしか腹も少し出てきた。それでも、僕は毎日汗を流して、働いた。
その日も、いつもの相棒と配達をしていた。相棒と缶コーヒーを飲みながら次の配達先に向かう。そして、学生の頃に勤めていたパン屋の前を通り過ぎた。
そこには、彼女がいた。
黒い髪を伸ばして、色白の肌。間違いなかった。でも、その肌には深くしわがあって、隣には小さな息子もいなかった。髪の中にも、白いものが見える。疲れきったその顔は、僕が一緒にいた頃の若々しさはなかった。
僕は、とても悲しくなった。彼女と別れてから、指を折って数えてみる。そう。10 年たっていた。当時、30 代後半だった彼女も 40 代後半になっているはずだった。勿論あのままの姿で 10 年も過ごすわけではなかったけれど、僕には信じられなかった。
「どうしたんだい? 知り合いか?」相棒が、僕の顔を覗き込んで言う。
「うん、昔付き合った女がいたんだ。でも、10 年経っているから、やっぱり歳をとっていたよ」
「そりゃそうだろ。お前も歳とってんだから」
そうだ。僕も、あの頃の僕じゃなかった。もう、あの頃のように、思い切り走ったりすることもない。会いたい気持ちで我慢できずに、自転車もこがなくなった。好きな気持ちを伝えるために、手紙もメッセージも送らなくなった。
家に帰ってから、僕はあの MD を探した。でも、結局みつからなかった。諦めて、ベッドに横たわる。蛍光灯が、明るく僕を照らした。あの切ない気持ちはどこに置いてきたんだろう。あのメッセージはどこにいったんだろう。あの綺麗だった彼女はどこにいったんだろう。
あの日の僕はどこにいったんだろう。
Fin
Trackback Data
- この記事に対する Trackback
- https://web-cafe.biz/~prelude/diary/mt-tb.cgi/571
- この記事のリンク先
- "bakery 12" @Web Café Weblog