ふたりだけのひみつ
僕は、仕事から帰ってくると、まずベランダに出て空を眺めることにしている。ベランダに出て、仕事が終わった今日の空を。空は、毎日違う。そして、僕の気持ちとは全く関係ない様子だ。僕がどんなに楽しい日であったとしても雨の日はあるし、悲しいことがあっても、空は青く晴れている時は晴れている。僕が帰ってくるのは、おおよそ夜 8 時前後であることが多いので、空は大抵暗く、星があるかないか、そんな程度しかわからないことも多い。札幌は、北海道とは言え 170 万人だか、180 万人の人口があるのだから、それなりに空気は汚いし、星だって綺麗に見るには、郊外の山の上に登る必要がある。
何はともあれ、僕はその時、空を見ていた。空は、空気が澄んでわりと綺麗に星が見えていた。星は、既に瞬きをはじめていて、深い海、ちょうど藍色の深い深い海に、星が浮かんで見えるようだった。僕は、そんな空を見上げながら、今日一日を振り返っていた。今日も、僕は会社で仕事をして、失敗して、何かをやり遂げ、結局何も解決しないままここに帰ってきた。
「お兄ちゃん」
ふいに、妹の声が聞こえた。妹は、中学を卒業したばかりで、今年高校に入学したばかりだ。毎日が新しい発見だらけのようで、僕にも先生がどうした、就職が厳しいらしい、進学したいなんてことを報告していた。そんないつもの話をしにきたと思った僕は、何も言わず彼女の方を見た。
彼女は、いや、ミキは、泣いていた。それは、悲しい涙でもなく、勿論楽しい涙でもなさそうだった。黒いブラウスに、白いミニスカート。ミキは、無言で僕の隣に来た。軋む汚れた木の板。このベランダは、子供の頃から変わっていない。そして、二人で空を眺めた。白い月の下側に、黒くて細い雲が流れている。
「お兄ちゃん」
もう一度、ミキは僕を呼んだ。
「うん。どうした?」
「お兄ちゃん、好きな人いるの?」
ミキの声は、乾いていた。なんだか別人と話しているみたいだ。
「いやぁ、別にいないかなあ」
僕は、普段通りに言ったつもりだったけど、なんだか、この暗い空に言葉だけが、ポカンと浮かんだみたいに自分の声を聞いた。
「いやぁ、別にいないかなあ」
頭の中で、もう一度繰り返してみた。今度は、頭の中で、ポカンと浮かんだ。多分、何度繰り返しても一緒だろう。
「そうなんだ。私は、いるんだよ」
ミキは、空を見ながら答えた。彼女の声はしっかりと僕の耳に届いた。そう、彼女には、好きな人がいるらしい。それは、特に驚くことではないし、初めて聞くことでもなかった。
「今度は、どんな人なんだい?」
「うんっとねぇ。お兄ちゃんが一番知っている人で、一番知らない人なんだ」
「誰だよ。わかんねぇよ」
僕は、笑いながら答えた。ミキは、僕を見ると、歩き出しベッドへ向かった。ここは僕の部屋だ。僕のベッド。彼女は、白いミニスカートを揺らしながら、僕のベッドに座った。暗い僕の部屋で、彼女の白いスカートは揺れた。藍色の海の中で、うっすら白く誰にも知られることなく泳ぐクラゲ。クラゲは、白い月を眺めた。僕は、クラゲのままなのかなぁ。
ミキは、僕の存在を無視するように、座って天井に顔を向け、目を閉じた。短すぎるそのスカートの中に、うっすら白いものが見えた気がした。
「ねぇ、おにいちゃん。ミキの隣に来てくれない?」
「あ。ん、ああ」
全く予想していない言葉に、僕はなんだか承諾したのか、拒否したのかわからない返事をした。彼女は、天井を向いて、目を閉じている。何も変わらない。ミキの隣に座った。ふと、彼女から汗のような匂いを感じる。4 月の夜は、まだ結構肌寒い。何故だ?
「ねぇ、お兄ちゃん。私の言うことを黙って聞いてね」
「ああ」
「私の好きな人の話なんだけど。私の好きな人はね、お兄ちゃんなの」
何故だか、急に熱くなってきた。彼女の汗の匂いを感じながら、僕は自分の背中にも汗をかいているのを感じた。汗は蒸発して、僕のシャツの襟首を抜け、鼻腔を刺激した。彼女は、何を言っているんだろう? ミキは、僕を好きだと言う。僕は、ミキを妹だと思っている。妹は、血の繋がった人だ。当たり前のことを、確認している。混乱しているんだ。
「何言って…
「言わないで! わかっているの。わかってる。わかってるから…」
なんだか、ミキが不憫に思えた。彼女は、好きな彼氏もいただろう。でも、こうして「普通じゃない」心情を当事者である僕に告白した。
「俺も、ミキのことは好きだよ。でもそれは…
「待って! わかってるのよ。私は、お兄ちゃんの妹だよ。でもね、お兄ちゃんのことを考えると、胸が苦しくなるの。ちょっと前に付き合ってたアツシに、抱きしめられている時も、おにいちゃんだったらいいのにって思ってた。それが、普通じゃないことはわかってる。わかってるけど、気がついたら、気がついたで、私の中で、気持ちが大きくなってきたの。どうしていいのか、全然わからないの」
「そうか」
僕は、何て言っていいのか全くわからなかった。
「抱っこして欲しい」
抱っこ? 僕は、混乱していた。そして、妹は苦しんでいた。多分ここで、彼女を抱きしめてやらないと、もっと苦しむことになるだろう。
ミキは、ゆっくりベッドに横になった。僕は、そんな彼女の行動を、ぼんやり眺めていた。別人が横になっている感覚。ここにいるのは、ミキでも、妹でもなかった。多分、僕を好きな一人の女の子だ。でも、僕は彼女を愛してはいない。
横になった彼女を、抱きしめたのは、いつの間にかだった。どうして、僕は彼女を抱きしめたのかを、思い出せなかった。車が、エンジン音を響かせて、ベランダの下を通過した。社会は、いつもどおり機能し、月の光はいつもどおりベランダを照らし、星は瞬いていた。ただ、僕達二人は、「普通じゃない」状況だった。僕は、妹を抱きしめていた。そして、彼女は僕を好きなのだ。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「お兄ちゃん、ありがとう」
「いや、いいんだよ」
「優しいんだね。そういうところが好きなの、お兄ちゃん」
「…。ああ」
僕は、彼女に優しくしたことを後悔した。でも、僕の性格からしたら、どのみちこうなったのかもしれない。
「キスして」
「それは、ダメだ」
「そうだよね」
「うん」
僕は、ひどく不自然な格好で、彼女を抱いていることに気がついた。座った姿勢のまま、彼女の顔に顔を近づけているようだ。
「ねぇ、やっぱりキスして」
「だ、
彼女の唇が、僕の唇に重なった。彼女の腕は強く、僕の背中を引き寄せた。藍色の部屋の中で、彼女の顔は、僕のすぐ目の前に白く見えた。彼女の舌は、僕の唇を割り入って、僕の舌を探した。
僕と、ミキはテレビの前でクッションに座り、ファミコンをしていた。いつも彼女は、面白そうにやっている僕のゲームの様子を見ていた。そして、面白そうだと思うと、「私にもやらせて」とせがんだ。そして、僕のようにうまくいかないと、すぐに諦めて、また僕が操るゲームの様子を眺めていた。彼女は、肩を合わせて僕の隣にいた。
僕が、社会人になって車を買った時にも、彼女は隣に一番に乗るんだとせがんだ。僕は、教習所で習った通り、ゆっくり車を滑らせた。「これは何? これは何に使うの?」質問する彼女に、僕はなんだか適当なことしか答えられなかったと思う。
幼い僕らは、一緒にお風呂に入った。まだ膨らまぬ乳房と、親指ほどの陰茎を持つ幼い二人。子供用のシャンプーを使わず、母の使うシャンプーを使って、目に入り泣くミキ。僕は、桶に湯を汲むと、ミキの頭にお湯をかけてやる。流れていく泡。ようやく泣き止むと、目を真っ赤にしながら、顔も真っ赤にしながらお湯につかる。肩を合わせながら、二人で百数えた。
目を開けると、藍色の部屋に戻った。僕は彼女から離れた。そして、またベランダに戻った。汗をかいた僕の額に、4 月の夜の風があたった。
ミキが、隣に来る。僕の隣に肩を合わせて。僕は、また、月を眺めた。月の手前に、また黒い雲が流れている。ミキを見ると、月を眺めている。そう、あの時、隣で画面を見ていた顔と同じ顔をして。