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続・Web 上の小説のようなもの
Last Modified : Sat, January 06 22:01:57 2018
2004-06-11 / 続・Web 上の小説のようなもの
深黒日々-WEB上の創作文芸を否定しているわけではないより。
妄想と創作の最大の違いは他者への共感性。書いている本人が楽しいだけ(自己完結)なのが妄想。読んでいる人も楽しいのが創作。ただし妄想も昇華させてしまえば立派な「創作」になるのですが。「現代文学」と呼ばれるもののほとんどが、妄想を昇華させた創作。
# 脱字と思われる部分は、こちらで補足しました。
Nezmi さんが、そのように定義されるのであれば、Nezmi さんの考えだから、それに関しては、特に言うこともないし、恐らく僕が述べたこととほぼ同じようなことであると感じた。
最悪なのは妄想ですらない、「願望」を書き連ねただけのクソったれ文章。作者のドッペルゲンガーが登場して(しかも本人より美形という設定)都合よく大活躍したりするともう見てらんない…、まあ個人的な願望すら共有してしまうのがインターネットなので文句は言えないのですが。
文章を読む上では、読み手の主観が大きく左右するものであるから、Nezmi さんが嫌いな例として挙げた作者のドッペルゲンガーが登場して(しかも本人より美形という設定)都合よく大活躍したりする
話でも、好んで読む人々がいるかもしれない。ただ、作者が人間として存在し、他人の意識には完全に入り込むことができない( 意識としての他人への同化あるいは転移が不可能であること )以上、創作されたものは、客観的に言えば、ある部分は作者の鏡であることは完全に否定することはできない。さらに言えば作者の雰囲気や、気質みたいなものが背景に感じられない文章は、新聞記事のような無機質な印象を受けるかもしれない。
僕自身は、願望を書き連ねた文章が、全てクソとは思わないが、どうしても Nezmi さんは、好きにはなれないということだ。それは、僕が言う読み手の主観が大きく左右するということ。
というか、その「個人的願望書き連ね小説もどき」群の方が、このサイトよりもアクセス数も反響も多い場合がほとんどだ。象徴的なのは、史上サイテーのベストセラー「DeepLove~アユの物語~」というケータイ小説が書店で平積みされて売れている現状だ。あんなクソネット小説の典型が版を重ねている時点で、妄想を昇華した創作よりも、お子様レベルの願望の方がよっぽど共有されやすいということだ。極端な話「ねずみ君は間違っています」と学級会でつるし上げてしまえば、間違いなく俺が悪者だ。
言い古された言い回しだが、アクセス数( アクセスログの行数やカウンターの数だとするならば )は、サイトの価値を量るのには用いることは適切ではないし、それはいわゆるベストセラーの書籍に関してもそうだ。売れている、閲覧される参照数が多いのは、話題にされていると僕は解釈している。そして、文芸作品に関して言えば、良いも悪いも間違いも正しいもない。読者の側が楽しいと思えば、それは良いし正しいのだ。作品の周辺に存在する発行部数や、サイトの閲覧数は、二次的なものである。
それにしても、なんでネット小説を書く人は「クソ呼ばわり」を恐れるのだろうか。自信を持っていれば、俺の無責任な放言など鼻で笑うか、無視するか、或いは啓蒙のために面白い小説サイトでも紹介してくれると思うのだが。
あと誤解を恐れずに言えば、ジャンルを問わず個人サイトの文章の9割9分は取るに足らない、大した価値がある訳でもない、クソであると思っている。
僕も、ちょっとした読み物を書いているので、あるいは、なんでネット小説を書く人は「クソ呼ばわり」を恐れるのだろうか
というくだりは、僕のことを暗に示しているかもしれない。僕自身の話をすれば、僕は、クソ呼ばわりされるのを恐れてはいない。先ほどの繰り返しになるが、読み手の価値観や感情、主観によって僕の書いたテキストを読んで抱く感想は千差万別だと認識しているからだ。批判されればそれは、批判者の意見として真摯に受け止めるつもりでいる。
Nezmi さんの書く日記は、ペシミスティックで、時として、その内容に眉をひそめることもあるし、まだ若いなと思ったりもするし、僕自身は彼の意見のほとんどが同意できないものだ。それでも、彼の日記を見ているのは、その意見を見てみたいと思う動機があるから。本人の人格を否定したくて見ているのではない。意見を述べることができるのは、全ての人に認められた権利であるのだから。
Nezmi さんの日記に限らず、批判的な記事を書く日記の特徴として、ある視点からの部分しか書かずに、批判してしまうところがあるように感じる。そして、圧倒的に材料不足だ。材料がない批判記事は、単なる個人的な嗜好を晒している自分勝手な日記にすぎない。「なんか知らないけど、ぶうぶう吠えてるな」と言われる日記である。
批判するのであれば、その批判されるべき材料を用いて、説明することが時として必要である。そこには、好き嫌いの感情ではなく、内容の精査が必要であることは大前提だ。嫌いだから、ダメってのが、最悪の論法だ。
勿論、誰もが納得できるような記事や日記を書くのは、不可能であるので、そこに議論が生まれる。
例えば、音楽や文芸作品などというものは、好き嫌いが大きく左右するものなので、Nezmi さんを責めるものではない。彼は、Web 上にある、99% の小説のようなものは、クソだと思っているのだ。そして、僕はそう思っていない。それだけのことだ。誰が否定できるだろう? 人の趣向は、簡単に人の意見で変わったりするものではないのだ。
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嘉来 : 2004-06-17 01:49
「クソ呼ばわり」されるということは、“その分野の裾野が広い”ということを暗に含んでいる。それは同時に、その分野への参入が容易で、実力の乏しい初心者による「クソ作品」が目に付きやすいということでもある。目の前の多くの「クソ」にうんざりして「本物」を知ろうとする努力を失ってはならない。ましてや、目の前の「クソ」を「本物」と勘違いしてはならない。私は「クソ」が大量に存在することは、むしろ良い傾向だと思っている。なぜなら、“裾野が広いからこそ、その頂上は高くなれる”からだ。全体の絶対数が小さければ、高い山は築けない。
ペシミスティックな人は「クソ」を見かけるたびに悲観的になり、あるいは攻撃的になるのかもしれないが、それはすなわち、悲しいかな、「クソ」によって自身がスポイルされてゆく初期段階なのではないだろうか?
…ジュンたんの真面目な文を読んで、こんなことを思いました。
ジュン : 2004-06-18 20:54
そんなときは、嘉来さんもブログですよ!!